| Hello Lenin! ─レーニン Seibun Satow Sep, 22. 2007 「私は、いかにも身ぎれいで、どこから見ても事務員のようなレーニンの指導力の源泉はどこになったのかと聞きました。彼はこう答えました。『レーニンが号令したので、われわれは前進したのです』」。 ジョン・K・ガルブレイス『不確実性の時代』 1 なにをなすべきか?  同志諸君!なにをなすべきか?なにをなすべきなのか?いったい、なされるべきことはなにか?  同志レーニン(Тварищ Ленин: Comrade Lenin)は、「なにをなすべきか」と党の責務を問うている。しかし、われわれは、今こそ、それを受けとめなければならない。  今年はロシア革命から九〇周年である。そのこともあるのだろう。今、西側の敵としてではなく、自由の収奪者としてではなく、階級独裁を一党独裁、派閥独裁、個人独裁へと堕落させた張本人としてではなく、同志レーニンは世界的に論じられている。  一九〇二年に公表した『なにをなすべきか?─われわれの運動の焦眉の諸問題』において、同志レーニンは党と労働者階級の関係ならびに党の組織構成を中心に論じている。それは、後に「レーニン主義」と呼ばれる独自の思想の核心である。もちろん、われわれは何回も、何十回も、何百回も読んできている。  このタイトルは、彼の愛読書、すなわちニコライ・ガヴリーロヴィチ・チェルヌイシェフスキーの小説『何をなすべきか』(一八六三)を踏まえている。チェルヌイシェフスキーはナロードニキ運動の創始者である。彼は革命家には厳しい自己陶冶が必要であると説き、協同社会の建設や女性解放を取り上げ、当時、急進的な知識人や学生に強い刺激を与える。ウラジーミル・イリイチ・ウリャーノフもその一人である。  同志レーニンはナロードニキ運動の革命戦術を継承し、自然発生的な労働運動に立脚した党、いわゆる下からの組織を「ブルジョア的」なものにとどまると厳しく批判している。党組織を労働者組織と同一視するのは過ちである。党は外部に開かれた労働者の組織ではない。革命事業に献身的に奉仕し、中央集権的な規律に従う「職業革命家」の組織でなければならない。革命は極めて困難な事業であり、専門的な知識や技術、経験が要る。戦うには戦い方を知らねばならない。革命特有のリテラシーを学ばねばないと、質的に言って、使いものにならない。党は馴れ合いの談合組織でも、仲よしクラブでもない。志願すれば、誰もが入れるわけではない。任務遂行のための特殊部隊である。グリーン・ベレーであり、デルタであり、シールズであり、レンジャーである。「最も確かな、経験に富み、鍛練された労働者たちからなる緊密に結束した小さい中核があって、主要な諸地区に委任代表をもち、最も厳格な秘密活動のあらゆる規則にしたがって革命家の組織と結びついているなら、これは民衆の最も広範な協力を受けて、どんなきまった形もなしに、職業的組織に課せられるいっさいの機能を果たし、その上まさに社会民主主義者にとって望ましいやり方で果たすことができるであろう」。  労働者階級の解放は労働者自身による事業ではありえない。労働者は、往々にして、目先のことばかり見ている。怒りは瞬間的な破壊力にはなっても、持続せず、倒したはずの既得権者がその隙を突いて復活してしまう。その発端は自然発生的であっても、実のある革命を成功させるには、働く仲間を組織化し、育てていかなければならない。プロフェッショナルな革命家集団である党からの「指導」があってこそ(この「指導」は、英語で言うと、”direct”である)、革命は実現する。真の利益を手にするため、場合によっては、キャリア革命家は労働者階級の要求に服従しない賢明な態度も必要である。階級意識は自然発生的に成長するものではない。目的意識によって成熟するものだ。今以上に成長していこうという向上心のない労働者は階級意識を持ち得ない。こうしたプロレタリアートの党は階級組織として最高形態であり、プロレタリアート独裁もこの前衛党を通じて完全に達成される。「われわれは、労働者が社会民主主義的意識を持ちえなかったと言った。この意識はただ外部から持ち込まれることができたのである。すべての国の歴史は、労働者は彼ら自身の力だけでは、単に労働組合意識、つまり資本家と闘争し、政府からあれやこれやの労働者に有利な法規を要求する等々のために組合に団結する必要を確信するだけにすぎぬということを示している」。  一八九八年三月、ミンスクで開催された労働者階級解放闘争同盟全ロシア大会において、ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ・プレハーノフ、そう同志プレハーノフなどと同志レーニンはロシア社会民主労働党の基礎をつくる。ところが、一九〇三年、第二回党大会の際に、党員の資格をめぐって対立し、非妥協的なボリシェヴィキと妥協的な(穏健なとブルジョア的歴史書には書かれるだろうが)メンシェヴィキに分裂する。同志レーニンの率いるボリシェヴィキは、もちろん、彼の党組織論を採用している。  昨今、このいわゆる外部注入論の評判は一般的に芳しくない。ブルジョアの手先だけでなく(これはいつものことであるけれども)、マルクス主義者を自称する者たちも(あくまでも自称にすぎないが)、労働者階級の階級意識を見下し、独善的かつ排他的、独裁的であると糾弾している。恐怖の監視社会の元凶であるとか、(正)教会制度の亜流ではないのかなど切り捨てられ、省みられることも少ない。  同志レーニンの目の前にはロシアの社会民主主義者がいる。彼らは経済主義の立場をとっている。その信念によると(その信心深さには神父も涙を流さずにいられないだろう)、自然発生的に労働運動が盛り上がり、その経済闘争が政治闘争へと発展し、革命を向かえるということだ。党の果たすべき役割は、その過程において、下からの労働者運動の「援助」である。革命への闘争の後方支援をするというのが彼らの考えである。  同志諸君、何しろ、経済主義者が思い描く社会民主主義者像は「労働組合の書記」である。労働者の日常的・経済的要求をとりまとめ、それを資本家に示し、不当な工場制度や労働者への待遇を社会に暴露し、労働者の経済闘争を助けるのが自身の任務ということらしい。彼らは革命的な美辞麗句を並べ立てたり、お役所風の手続きを言い訳にしたりする。つかり、ブルジョアの慈悲深さは期待できるとでも言いたいのだろう。ずいぶんとお人よしなものだ。  しかし、同志レーニンはそう考えてなどいない。真の社会民主主義者(後の共産主義者と同じ意味である)とは「護民官」であると強調している。「護民官(Tribunus Plebis)」は、古代ローマにおいて、平民会で選ばれ、元老院や貴族の専横から平民を守る役割を果たすための役職である。簡単に言い換えると、社会民主主義者は革命の大儀のために、断固として敵と戦いぬく。労働者階級の助手やヘルパーなどではない。  だからと言って、同志レーニンは人民の意志派のようなテロリズムにも与しない。なぜなら(これは同志レーニンの好む文語的な接続詞であり、口語的表現によってその文章が閉じられる傾向がある)、テロリズムは経済主義と同じ前提に基づいているからだ。「経済主義者とテロリストとは自然発生的潮流の相異なる対極の前に拝脆するのである。すなわち、経済主義者は、『純労働運動』の自然発生性のまえに拝放するし、テロリストは、革命的活動を労働運動に結びつけて渾然一体化する能力を持たないか、または可能性をもたないインテリたちの最も熱烈な憤激の自然発生性の前に拝脆するのである」。「一方は人為的な『興奮剤』を探して飛び出し、他方は『具体的な要求』を論じたてるのだ。両方とも政治的煽動をおこない、政治的暴露を組織する仕事における自分自身の積極性を発展させることには、十分の注意を払っていない。だが、この仕事は、今日でも、またほかのどういうときでも、他の何ものかによって代用させることはできないのである」。  結局、同志レーニンの認識の方が正しかったことは第二インターナショナルの瓦解が示している。カール・マルクスの時代と比べて、西欧諸国の労働者階級が革命に熱心ではなくなっている。労働者は牙を抜かれ、ブルジョアジーに対して戦闘的ではない。同志レーニンはマルクス主義者である。われわれはそれをよく、十分に、大いに知っている。彼は本を丸暗記したり、それを神聖なお題目として唱えるような人物を毛嫌いしている。マルクスの著作をただ読んでいたわけではない。歴史的・社会的変化と照らし合わせ、その思想を吟味し、意味を読みとる。植民地はマルクスが考えていた市場から投資及び開発の対象へと変容し、これによって欧米の資本主義はより強大になっている。つまり、資本主義は新たな段階に入り、「帝国主義」を迎えたのである。同志レーニンは、こうした時代の変化を考慮して、マルクスの思想の意味づけを行っている。 2 帝国主義とジンゴイズム  同志レーニンのいわゆる外部注入論は、労働者階級が体制を打破するどころか、帝国主義政策の支持に回ったという一九世紀後半の歴史を踏まえている。  イギリスでは、保守党のベンジャミン・ディズレーリ内閣(ヴィクトリア女王のお気に入り!)が拡張政策を推し進めていくが、その際、労働者階級が強大な植民地帝国の形成を後押ししている。産業革命を先駆けて経験していたイギリスも、一九世紀後半になると、フランスやドイツ、アメリカが急激に工業化を達成した結果、輸出入の収支は大幅な赤字が続いてしまう。しかし、イギリスの経済力は他国に抜きん出ており、シティは世界金融の中心地の地位を維持する。その主な原因はイギリスの対外資本輸出の巨大さである。一八七〇年から二〇世紀初頭にかけて、イギリス一国だけで、世界各国の国外投資額総計のほぼ半分を占めている。こうしたイギリスの帝国主義は抜け目のない政治家や強欲な資本家、野望にとりつかれた軍人だけによって遂行されていたわけではない。世論が味方したのだ。  同志レーニンは、『なにをなすべきか?』の中で、「新聞は、集団的宣伝者および集団的煽動者であるだけでなくまた集団的組織者でもある。この最後の点については、新聞は建築中の建物のまわりに組まれる足場にたとえることができる」のであり、全国的政治新聞こそ「集団的組織者となることができる」と主張している。彼はまさに正しい。イギリスの世論形成の重要な担い手が『デイリー・メール』紙である。この新聞はロザミア卿とノースクリフ卿によって一八九六年五月四日に創刊されている。同紙は英国史上初のタブロイド紙(ジャーナリズムのジャンク・フードの別名もあるが)である。現在も発行され、二〇〇万部を越え、それは英語の新聞としては世界第二位の発行部数である。  一九世紀末になると、義務教育制度の整備と共に、識字率(自分の名前の読み書きだけから印刷物を読める段階へとリテラシーの基準も変わる)が向上し、潜在的な新聞の購読者が見込まれるようになる。この社会的変化に目をつけたノースクリフ卿は従来の知識層ではなく、中小の事業主や労働者に絞った新聞を考案する。ブルジョアも労働者も、経済的な貧富の差こそあれ、古典的教養には乏しい。そのため、短くてわかりやすい記事と写真を採用し、スリルとサスペンスに満ち、善悪のはっきりとした連載小説を導入する。さらに、商品や企業の広告を大量に載せ、その宣伝費で製造・販売コストを補い、価格を安くするのに成功する。半ペニーで、八ページの新聞は、創刊後、すぐに五〇万分を突破し、イギリスで初めて一〇〇万部を超えた新聞となる。ブルジョアの宣伝紙であるにもかかわらず、労働者階級もこぞって愛読している。  従来の新聞は政治的主張を教養ある読者に向け、お上品に、遠まわしに語っている。しかし、『デイリー・メール』は違う。簡単な単語を使い、大言壮語に言いたいことを書きたてる。その記事の中心は好戦的愛国主義、すなわち「ジンゴイズム(Jingoism)」である。これは、もともと、一八七八年に流行したアイルランドの歌手G・H・マクダーモット(G. H. MacDermott)による次のような歌詞に由来している。 We don't want to fight俺たちゃ戦いたかない) But, by Jingo, if we do,(でも、そうさ、やることになったら) We've got the ships,(俺たちにゃ艦隊がある)  We've got the men,(俺たちにゃ兵隊がいる)  We've got the money, too.(俺たちにゃ金もあるんだぜ)   “By Jingo!”は合いの手で、「そうだ!」や「まったく!」といった意味がある。今で言うと、「ビンゴ(Bingo)」だ。この好戦的な歌はパブやミュージック・ホールでお馴染みとなる。  ディズレーリ(温情溢れると評判らしいが)は国内の対立を有権者の目からそらすために、「大イギリス主義(Large Englandism)」を唱え、各地で戦争を繰り返し、領土を拡大していく。彼は保守派の政治家であるが、敵をつくり出し、それと対決している姿を有権者に披露する。そのことで、鬱屈とした労働者にも高揚感を与え、盛り場で憂さ晴らしをする層からも支持される。  この歌詞はジンゴイズムが自己防衛を拠り所にしていることをよく表わしている。そのため、他国に理不尽な暴力を行ったとしても、反省することはない。  『デイリー・メール』はまさにジンゴイズムの新聞である。記事の内容は、毎号毎号、ほとんど似たようなものである。自国や自国民の優秀さ、進歩性、誇り、品格、利害などを愛国主義の名の下に煽り立てる。他国がいかに劣等で、後進的、下劣、野蛮かをセンセーショナルにこき下ろす。こういった身の程知らずとの自分たちは競争に勝ち抜かなければならない。そのあまりに好戦的な記事のため、第一次世界大戦の勃発の後、『デイリー・メール』は戦争を扇動したと知識人から糾弾されたほどだ。  同志諸君、一九世紀の欧米の歴史を省みる限り、民主主義が平和的であるとは言えない。そもそも、一九世紀前半まで、民主主義は衆愚政治と同義語として扱われている。それがよい意味を持ち始めたのはアメリカの第七代大統領アンドリュー・ジャクソンの搭乗である。彼を領袖とする派閥が「民主共和党」を名乗り、それは民主主義が進歩的な思想に格上げされた現われである。民主主義者ジャクソンのアメリカは、ディズレーリのイギリスと同じく、好戦的である。それだけではない。普通選挙によって成立した政権で数多くの帝国主義戦争が起こされている。なぜなら、交戦相手国の国民や収奪される人々には投票権がないからである。  同志諸君、ジンゴイズムは感情的で、そこには自己批判がない。そのため、本質的な議論につながらない。戦争が長引いたり、激化したりすれば、戦死者が増える。戦争好きにも厭戦気分が生まれる。あんなへんぴなところで、イギリスの若者が死ぬ価値なんてあるのかというわけだ。しかし、それにしても、頭数が減れば、国力が低下するという別の愛国主義に基づいている。愛国主義の問題自身はまったく、何も、全然問われない。  現在に至るまで、新聞だけでなく、ラジオやテレビなどのメディアが開戦をとめる機能を果たすことは稀である。多くの場合、メディアは権力と一緒に、扇情的に、戦闘意欲を高めてしまう。こうしたメディアの対応は権力に迎合するためでもなければ、権力が規制しているためでもない。なぜならば、戦争が炎や爆音、壊れた戦車、転がる死体、泣き叫ぶ子供といった具体的なものを提供するからである。メディアは、本質的な問題が抽象的になりがちであるため、使うことが苦手である。メディア・リテラシーを知った上で、接しなければ、いつまでもペテンにひっかかってしまう。  第二インターナショナルは、第一次世界大戦において、まさにジンゴイズムに囚われた労働者の動向によって失敗に終わる。数こそ多くても、彼らは日和見主義的で、頼りにならない。おしゃべりはもうたくさんだ! 3 帝国主義と革命  『なにをなすべきか?』に帝国主義の本質が記されているわけではない。それは『資本主義の最高段階としての帝国主義論』(一九一六)を待たねばならない。同志レーニンはジョン・ホブソンとルドルフ・ヒルファーディングの共著『帝国主義論』(一九〇二)に影響され、この作品を書いている。独占・金融資本・資本輸出・国際カルテル・世界の領土分割といってキーワードは彼らからの借用である。  同志諸君、近年、イマニュエル・ウォーラーステインの「世界システム論」を援用して、植民地問題を解釈する学説が流行している。侵略=被侵略ではなく、覇権争いから捉えるべきだと彼らは主張する。一六世紀以来、欧州は複数の国家によって形成されている一方で、その資本主義が世界的に拡大していく。ウォーラーステインはこの政治的多元性と経済的一元性を「世界システム」と呼ぶ。資本主義が世界に伸張していく過程で、後からそこに編入されたく諸国は「周辺」に位置づけられ、「中枢」にその利潤が吸い上げられる。世界システムがさらに広がっていくと、さらに新たな「周辺」が生まれ、従来のは半周辺と言うべき地帯に変容する。この議論では、発展途上国と先進国の国際的影響力の逆転は期待できないので、第二次世界大戦後の国際情勢をうまく説明することはできない。こうした中枢と周辺の入れ替わり世界資本主銀収縮期に起きることになるが、日本や韓国、中国、ブラジル、インドの成長はそれに適合しない。世界資本主義の拡大は貧困地域をさらに貧しくするという認識は成り立たない。しかし、第二次世界大戦以前には適用できるので、東アジアの歴史研究で使われている。だが、そんなことは考えるまでもなく、当たり前である。なぜなら、これは同志レーニンの帝国主義論の焼き直しだからである。しかも、帝国主義や植民地という政治的支配の現実を前に、それに対する「戦略」として同志レーニンが訴えた理論であると言うのに、「世界システム論」は植民地の独立や新興国の登場といった現状に何ら応えていない。これを用いて第二次世界大戦以前の東アジアの歴史を分析することに新鮮さを感じているのはどうしたわけか!結局のところ、世界システム論やそれに先立つ従属理論、後発のアントニオ・ネグり=マイケル・ハートの「帝国」論などは、同志レーニンの帝国主義論のヴァリエーションである。  従来の正統マルクス主義の見解によれば、資本主義が進展するにつれ、その矛盾が抜き差しならない事態を招き、覚醒したプロレタリアートが革命を通じて体制を打倒し、権力を奪取する。プロレタリアートは資本主義の矛盾を一身に背負っている。彼らが蜂起せずして、資本主語の矛盾が解決することはない。最も進んだ資本主義国において、最も革命の起きる可能性が高い。  けれども、第二インターナショナルの体たらくを見た同志レーニンはそれを転倒する。帝国主義段階に入った資本主義国において、自然発生的なプロレタリア革命など到来しない。資本主義が十分ではない遅れた国において最も革命が勃発しやすい。それだけではない。そこでは革命を必要としている!  プロレタリアート独裁はプロレタリアートの「指導」の下によるそれ以外の階級との同盟である。しかし、ロシアを含め遅れた国々では、その肝心のプロレタリアートはいまだ十分にいない。新たな体制を打ち立て、プロレタリアートを生み出し、彼らが将来的にその体制を担う必要がある。プロレタリアートが不十分なのだから、護民官たる当が率先しなければならない。プロレタリア革命はプロレタリアートによる革命ではなく、プロレタリアートを生産するための革命である。  福井憲彦は、『近代ヨーロッパ史』において、一八四八年に欧州各地で頻発した革命を総括して次のように述べている。  この一八四八年のさまざまな運動も、いずれも最終的に目的を達成したものはなかった。運動を推進した人びとの政治変革や社会変革の夢は実現しない。運動が革命として成功し、政治権力を担ったとしても、それは一時的な状態にすぎなかった。  しかし、これらの運動によって、メッテルニヒが亡命を余儀なくされたことが象徴的に示しているように、ウィーン体制はもはや維持できるものではないことがあきらかになった。民衆階層を含めて、国民の政治的同意をいかに取りつけて、換言すれば世論をいかに味方につけて、政治を運営できるかが大きな問題であることを、多くの支配者は認識せざるをえなくなったのである。したがって世論を誘導しようとする姿勢もとられるようになる。  この一八四八年のさまざまな運動の展開を通じてはっきり浮上してきた問題は、貧困や住環境などの民衆の生活権とかかわる社会問題であり、労働者としての自意議の形成をともなう労働問題、であった。表現を変えれば、各種の社会主義的な主張が、政治の部隊に明確に姿を現わすようになる。社会主義運動や労働運動が無視できない政治勢力として、ヨーロッパの政治をめぐる状況の中に位置してくるのである。  また、国力を強化するためには、経済の近代化を追及することが不可欠であることも、明確になる。すなわち工業化の推進であり、国内市場の整備であり、それらの核となるべき都市の整備である。アーバニズムという考え方や表現が、じきに姿を現わしてくる。保守反動にたいして政治体制の変革を求める自由主義、共和主義と,さらにそれに加えて経済体制の革命をも求める社会主義とか、微妙な関係を取り結ぶようになるのである。  一八四八年、ヨーロッパ各地で反動的なウィーン体制を転覆する革命が頻発する。しかし、それらは頓挫し、ブルジョア的体制が出現するだけに終わる。革命はそれに期待した勢力の政権掌握にはつながらない。もっとも、権力者たちにとって、革命はトラウマとなっている。人民の声をないがしろにすれば、また革命が起こると社会主義的な政策を少し、いくつか、ほんのわずかとりこむ温情主義をとり始める。  このときから今まで、革命は権力の座にしがみつくことしか頭のない腐敗しきった為政者を引きずりおろし、近代化を劇的に促進させるために起こされるのが常である。  同志諸君、プロレタリアートの増加は農村の事情と密接な関係がある。近代的労働者階級が生まれるのは、人口が増加し、農村のあまった食い扶持を都市が吸収する流れができてからである。一九世紀初頭、ヨーロッパで、小麦の連作方法が発見される。それまで欧州社会は慢性的な食糧不足だったため、人口は微増にとどまっている。しかし、新しい方法により、穀物供給が大幅に改善され、人口が急速に増加する。農村から流入した人々が工業化が始まった都市で、工場や港湾の労働に従事するようになる。このようにプロレタリアートの増加には農産物の供給量の増大が不可欠である。  サンクトペテルブルクも、一九世紀初頭、湿地の干拓によって土地が拡張されたため、アレクサンドル一世治世の間に、人口が倍増している。一九世紀後半に港湾施設が整備されると、産業も発達する。イギリスと比べると少数であるけれども、プロレタリアートがロシアにも現われ始める。  こうして生まれた資本主義は成長していき、その最終段階の帝国主義へ到達する。同志レーニンは、独占及び帝国主義の段階にある資本主義の本質を解明し、その崩壊の不可避性を明らかにしている。帝国主義において、世界は帝国主義国家と植民地・従属国に二分される。そこで、帝国主義国は、外部では民族自決による解放闘争、内部ではプロレタリアートによる階級闘争の二正面作戦に追いこまれる。帝国主義体制を打倒するためには両者は共闘するほかない。民族・植民地問題は国際プロレタリア革命の重要な一環である。第一次世界大戦は、資本家階級の利益のために、労働者が敵味方にわかれて戦わされているのにすぎないの。帝国主義を打倒する革命だけが恒久平和をもたらす。従って、社会主義者は「帝国主義戦争を内乱へ転化する」べきである。  帝国主義戦争を革命に至る内乱へと転換させるという提案は、同志レーニンのかねてからの持論である。日露戦争の際、一九〇四年に著わした『旅順の歓楽』において、日本の勝利を歓迎し、敗戦によるツァーリズム体制ロシアの崩壊を支持している。さらに、一〇年後の『戦争とロシア社会民主党』でも祖国防衛主義を批判している。  同志諸君、今日、ナショナリストと言えば、右翼のことである。しかし、本来はそうではない。ナショナリズムはフランス革命の理念に由来する自由主義的国民主義を指している。ウィーン体制の時代には、政治的には、一八四八年革命に参加したような左翼に属している。植民地での民族解放運動は正統的なナショナリズムである。今、ナショナリズムと呼ばれているのは、正確には、ジンゴイズムである。  保守主義や右翼は受動的な思想(もっとも、思想と呼ぶにはあまりにも体系性に欠けるが)にすぎない。もともと、保守主義は反フランス革命である。保守主義者たちは現状を盾にして、一昔前の急進派の主張をとりこみ、自由・平等・友愛の理念の矛盾を批判する。ただ、保守主義は理念に縛られないため、現状に対応しやすい。けれども、理念が欠落しているから、左翼への対抗としてのみその存在意義を示すことができない。この保守主義をイデオロギー化したのが右翼である。右翼は近代主義の一種であり、自説を強化するため以外には、近代以前へと遡ることはしない。左翼が近代を先導したのであり、左翼の弱体化は近代性への不信の現われである。保守主義や右翼はそんな左翼に依存している。  歴史を大事にしようと言う人がいるが、ぼくも歴史が好きだ。歴史は、フランス革命とかロシア革命とかで、世の中が大きく変わったように描かれている。しかしながら、革命政府はまずい社会を作っているようなところがあって、保守主義者がなかなかいいことを言ったりもするが、復古派に与する気にもなれぬ。世の中が変わるのには、時代がそれを求めていることもあって、あとから考えると、革命派がそれなりに時代を代表しているとも言える。たぶん、革命派が革命の理念にこだわって無理をしすぎるのがまずいのだろう新築を飾りたてて文化が身につかぬ家のようだ。 (森毅『改革の時代の時間感覚』)  同志レーニンによるこのマルクス主義理論の読み替えの意義は大きい。なぜなら、一部の先進国ではなく、後進国や被支配地域においても革命が可能だという根拠を与えたからである、革命運動は労働者階級の解放のみならず、民族解放も含むはるかに幅の広い政治闘争となる(現代の反グローバリゼーション運動なども踏襲している!)。これによりマルクス主義は世界各地に浸透していく。帝国主義は未開の文明化というイデオロギーに支えられている。進んだ列強が後れた地域を支配することは人道的介入だというわけだ(史上最大の人道的介入はクメール・ルージュからカンボジアを解放したベトナムだろう。そんな意識はなかっただろうが)。レーニンはそれに民族自決と並ぶ対抗理念を提供する。レーニン主義は狭義の資本主義ではなく、広義の資本主義、すなわち帝国主義を最大の敵とする。あと欲しいのは成功例だけである。  同志諸君、同志レーニンは無原則な日和見主義者でなかったと同じくらいに、頑迷な教条主義者でもない。「最も抽象的なものは最も具体的なものである」(『哲学ノート』)。真理は具体的なものの抽象から把握される。彼は、変化する状況に応じて、歴史上に自分自身を位置づけ、理論を磨き上げていく。  ブルジョアジーは利害によって協力する。うまくいくのであれば、理念は二の次である。彼らは敵に体制を明け渡さないためなら、妥協する。他方、革命組織は理念に基づいて共闘する。この理念のためならば、利害は二の次である。権力も手にしていないのに、食い違ってしまうと自説に固執するあまり、分派闘争が始まってしまう。しかし、それこそ、敵の思う壺だ。  ロシア革命はウィーン会議以来続いていた一九世紀流の力の均衡論の終わりを告げるものである。力の均衡は政治的・経済的・軍事的のつりあいによってのみ保てはしない。共通の利害、はっきり言えば、共通の敵がなくてはならない。当時の為政者たちにとって、それは革命勢力の台頭である。しかし、革命派が権力を奪取したそのときに、その考えは時代遅れとなったのである。  同志諸君、それを踏まえ、昨今の国際政治を言い表わす概念として「帝国」を使うのを躊躇する。むしろ、「コモンウェルス」が適当である。「コモン(共通)+ウェルス(財産)」はあまりにふさわしすぎて普及していない!  同志レーニンは理念を生かしつつ、現実を見極め、したたかに、権力を掌握することに思案する。マルクス主義者として勝たなければならない。しかし、生きているうちに、革命を見ることはないかもしれないと弱音ともとれる論文も発表している。  当時の帝政ロシアは、シロアリに食い尽くされて崩れ落ちる寸前の家ではない。第一次世界大戦頃、穀物輸出で潤い、金の保有量は世界第二位という豊かな国である。また、報道の自由も、英米ほどではないにしろ、認められている。瞬間的に体制がひっくり返るような決定的な要因はそろっていない。  けれども、そのときが、まさにそう見通した際に、諦めかけた際に、同志レーニンとその仲間があずかり知らぬ際に、やってくる。 4 ロシア革命  ユリウス暦一九一七年二月二三日、サンクトペテルブルクで、食糧配給の改善を求めるデモが起きる。最初は小規模だったが、次第に参加者が増え、警官隊と衝突し、市民に多数の死傷者が出る。この事件をきっかけに、市民の怒りは爆発し、また、軍内部でも兵士が反乱を起こす。こうした反体制運動は革命に発展していく。  二月革命によってロマノフ王朝は打倒される。一九〇五年に皇帝ニコライ二世がドゥーマ、すなわち国会を開設していたが、そのブルジョア議員は臨時政府を樹立する。その一方、労働者や農民、兵士などの代表によって構成されるソヴィエト、すなわち評議会も自然発生的に発足している。この両者が連携して政権運営を図っていくことになる。  社会革命党、いわゆるエスエルのアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーを首班とする臨時政府は報道の自由や集会の自由など自由主義的政策を着々と実施し、解放感を社会にもたらす。しかし、その一方、英仏との同盟関係を維持し、対独戦争の続行を決定する。いわゆる「封印列車」に乗って亡命先のスイスから帰国した同志レーニンは、『現在の革命におけるプロレタリアートの任務』、いわゆる四月テーゼを公表する。そこで、戦争の帝国主義的性格を確認し、祖国防衛主義を糾弾している。その上で、ロシアのブルジョア革命は終了したのであり、「労働者・雇農・農民代表ソヴィエト共和国」の創設を提言する。当初、同志レーニンは烏合の衆ではないのかとソヴィエトに懐疑的であったが、現状を分析し、考えを改めている。当時、これを支持するものはボリシェヴィキにおいてさえいなかったけれども、公認路線となる。ボリシェヴィキは「すべての権力をソヴィエトへ」と二重権力構造の解消をスローガンに掲げる。  同志レーニンは同志プレハーノフの二段階革命論を支持していたが、この四月テーゼでは、レフ・ダヴィドヴィチ・トロツキー、おお優秀なる革命家である同志トロツキーの永続革命論の立場をとっている。一国でプロレタリアートの政権が成立しても、帝国主義の時代においては、十分ではない。革命の衝撃を各地に伝え、全世界で共産主義社会、すなわち世界ソヴィエト共和国連邦を実現しなければならない。また、後進国の場合、革命政権の維持のために、進んだ他国での連続した革命が必須である。さらに、既に権力の奪取が成功した国では、改革の継続が不可欠である。  同志諸君、よく知られている通り、ボリシェヴィキはソヴィエトにおいて少数派である。けれども、臨時政府内部の対立が激化し、ソヴィエト内でのボリシェヴィキの発言力が増し、状況は二月体制打倒へと進む。  その際、同志レーニンは『国家と革命』(一九一七)により来るべき社会像を描き出している。これは極めて楽観的であるだけでなく、はっきり言ってしまえば、アナーキスト的である。ブルジョア国家が崩壊した後、階級的対立は消滅し、国家の強制的機能は衰退し、社会や経済の管理は誰にでも行えるほど簡単になるとその作品は物語っている。国家は消滅する。執行と立法を同時に行うソヴィエト制度、さらに、プロレタリアートに責任を負い、解任することのできる「監督」と「記帳係」がそれに取って代わる。このような希望に満ち満ちた内容となっている。  同志レーニンの著作は常に戦略的に書かれてある。『国家と革命』も例外ではない。革命は絶望から起きない。革命が希望と思えたときに生じる。同志レーニンの著作を読む際には、彼の戦略が何であるかを考えなくてはならない。  ユリウス暦一九一七年一〇月二五日、二月体制は崩壊する。慎重な計画を立案して、各勢力活動の統合した上で、同月二四日にボリシェヴィキは蜂起し、ほぼ無血で権力を掌握している。  ソ連崩壊後のロシアでは、これは「クーデター」と呼なれている。歴史を正当に評価しようという試みから生じているわけではない。旧共産党の流れをくむ勢力以外、一〇月体制の意義を見出すものが少ないからである。  ウラジーミル・ウラジミロヴィチ・プーチンは、いかに一〇月革命がなぜ成功したのではなく、なぜ帝政ロシアやケレンスキー内閣が崩壊したかを使って、自分の強権政治を正当化している。彼は、一九八三年に書かれたアレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィンの『二月革命』の説をロシア中に流布している。つまり、それは、優柔不断で、決断力に乏しい弱いリーダーだったから、政権が自戒したというものである。  新政権はドイツとオーストリアとの単独講和に向かうが、提示された条約内容はほぼ降伏条件であり、党内分派の左翼共産主義者、すなわちプハーリン派は締結に反対し、革命戦争の遂行を主張する。なるほど、同志レーニンも、政権を手にする前は、革命戦争の推進を支持している。しかし、いざ最高権力者となると、『併合主義的単独講和の即時締結についてのテーゼ』で、ソヴィエト・ロシアには戦争を続ける能力も条件もなく、またドイツ革命が勃発する可能性が低いと反論する(実際に、一九二〇年から翌年にかけて、領土拡大を目的として、攻めてきたポーランドと戦争になり、赤軍はドイツ革命の支援を期待して進撃したものの、ワルシャワで大敗している!!)。激しい党内論争の後、同志レーニンらの単独講和論が勝利し。一九一八年三月三日、ボリシェヴィキはブレスト=リトフスク条約を締結している。  三月一九日、ソヴィエト政権は首都をサンクトペテルブルクからモスクワに移す。すでにこ、暦もユリウス暦に代わり、西欧で使われているグレゴリ暦を採用している。これらは帝政ロシアからの決別を内外に印象付けることになる。  これで平和がくるはずだったが、その直後、ロシアは内戦状態に突入する。各地で、白軍や民族主義者、社会革命党、アナーキストなどが蜂起し、加えて、日本やアメリカ、イギリス、フランス、イタリアなど列強各国がシベリアに出兵して軍事干渉を始める。ロシア内戦は、勝ち抜いたボリシェヴィキ改めロシア共産党による一九二二年のソヴィエト社会主義共和国連邦の成立まで続く。「レーニンの最大の功績は、権力を保持し、強化して、その後の五年間で無政府的な内戦の状態を確固たる権威のもとに解消せしめたところにあったのです」(ジョン・K・ガルブレイス『不確実性の時代』)。二〇世紀後半以降の内戦の泥沼化を経験して現在から見れば、それは確かである。同志諸君、いったん内戦が始まれば、ほとんどの場合、一〇年以上に続くのをわれわれは目の当たりにしている。それをわずか四年で、あの広大なロシアで繰り広げた内戦を終結させ、一定の秩序を回復したというのは驚異的と言うほかない(ジョージ・W・ブッシュ大統領閣下、貴殿はそれをいかにお考えか?)。  一九二二年、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国、白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国、ザカフカス・ソヴィエト連邦社会主義共和国、それにロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の四共和国の合意によってソ連が成立する。一九三六年に、ザカフカス・ソヴィエト連邦社会主義共和国は廃止され、グルジア・ソヴィエト社会主義共和国、アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国およびアゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国へと分かれている。一九九一年、結成に携わった三つの共和国は、核兵器の帰属問題を交渉している間に、二二年の約束を思い出し、連邦解体に合意して(核保有国はロシアだけにするということで)、構成国はそれぞれ独立する。  同志諸君、内戦が始まった直後、ボリシェヴィキは戦時共産主義と呼ばれる諸政策を実施する。工業と銀行を国有化し、穀物取引の規制ならびに余剰穀物の(強制)提供を命じる。しかし、支持者から反発を浮け、暴動の頻発を招いてしまう。穀物の強制徴収は革命の拠点の一つクロンシュタットでさえ反ボリシェヴィキ運動が起きているくらいだ。富の再配分のシステムがなければ、信じる政策をただ実施すれば、不満は起こるものだ。そこで、同志レーニンは新経済政策、いわゆるネップへと経済政策を転換させる。革命家集団の行政手腕は明らかに経験不足で、統治すること何たるかさえわかっていない有様である。一九一八年、『ソヴィエト権力の当面の任務』において、国内経済の早急な建て直しを目的に、企業と経営に対する記帳と統制の組織化、ブルジョア専門家の登用、生産過程における単独責任制の導入を提言する。市場経済を大胆に取り入れたのである。  しかし、コミューン国家を理想とするプハーリン派からは社会主義の放棄だと激しく非難される(ネップにより、生産部門が一九二七年には戦前の水準にまで回復してたのだが)。そのため、同志レーニンは、政治的には、締めつけを強化する。彼はこれまでも左翼共産主義者や民主主義的中央集権派、労働者反対派から非難され続けてきたが、理論闘争、すなわち「批判の自由」が運動を活性化させるとの考えをとっている。しかし、一九二一年、ロシア共産党第一〇回大会において、党内分派の結成の禁止し、中央委員会にそれを目論む分子の除名権限を採択させる。  同志諸君、経済的に緩めた代わりに、政治的に厳しくしてバランスをとろとしたと見るべきだろう。これは簡単に予想されることだが、中央の統制が緩んで、途方の党が勝手に企業活動に走れば、利権に群がる地元と癒着し、腐敗や不正の温床となる。それは、結局、国の分裂につながる。  一時的措置と思われていたけれども、同志レーニンの永眠後、同志スターリンはこれをおおいに利用していく。 5 ネップとレーニン主義  同志諸君、ネップは、現在から見れば、ケ小平の社会主義市場経済(開発独裁との類似点を指摘するものもいるが、それはマルクス主義の持つ歴史への位置づけを見ていない意見である。スハルトが自分の政治を世界史の枠組みの中で語っていただろうか?)に非常によく似ている。毛沢東こそマルクス=レーニン主義者だと口にする者もいる。けれども、そうではない。ケ小平は文化大革命期に資本主義に走ったと教条主義者から非難されたが、この点で、レーニン主義の正統的な継承者であると言わねばならない。  森毅は、『男味と女味─集中と分散について』において、ケ小平の意義を次のように述べている。  〈男味〉の代表例は、太平洋戦争中の帝国陸軍だろう。戦後は、旧帝国陸軍の精神的な残党が、そのメンタリティで経済戦争に突入したのだと言われている。敵から見ると、旧日本軍は進む道を決めたら、他の道の可能性を考えようとしなかったので、非常に扱いやすかったらしい。一筋にやっていくことが最高の価値である、と考えたのが帝国陸軍だった。みんながこうと決めたときに他のことを考える奴は放り出される。〈男味〉の立場からすると足並みを乱すことはゆゆしきことなのだ。  しかし、〈男味〉ではゲームには勝てない。ゲームというのは、状況によって態度や決定が変わるのが当然なのだ。あいつはグーを出し始めたらグーを出し続けるとわかってしまったら、もう絶対に勝てるわけがない。グーもチョキもパー も出すかも知れないから、ゲームが成立するのだ。  それに比べて、中国の元共産党副首相・部小平はすごいなと思う。  彼は、「わたしの最大の発明は、二者択一の決定を議論して決めないことだ」という。議論で決めていたらとても間に合わない。さしあたり A が出たら A をやる。その代わり、いつでも B に変わる用意はしておくのだという。こういう選択は、 A 一筋で進むよりずっと難儀なのであるが、実際にはとてもフレキシブルだと思う。この考え方は社交主義に通じるものがあると思う。社交というものには、選択肢を相手によって変えるという柔軟性が要求される。従って社交の基本は〈女味〉なのである。  一方、社会主義のほうのソーシャリズムは〈男味〉が基本だ。組織の継続性が大切になるからだ。郡小平のすごいところは、〈男味〉の極致のようなギンギンの社会主義国である中華人民共和国というシステムのトップに昇りつめながら、自分の基本原則が〈女味〉であると公言してはばからなかった懐の深さにある。  ケ小平はレーニン主義を復活させている。レーニンの実践にも、集中と分散の弁証法が見られる。一方的な集中でも、分散でも不十分である。ネップによる分散を承認しつつ、他方で党倍部の集中を強化している。これは一つの弁証法である。二月革命の継承者にしろ、プーチン派にしろ、この弁証法の認識がない。彼らは極めて単調である。「〈男味〉が強すぎると、一旦立てた計画に拘って融通が聞かなくなってしまう。一方、〈女味〉には危ない部分があって、状況に流されてどっちへ行くかわぁらなくなって、おまけにその時に責任の所在がわからなくなったりする」。ネップの分散という政策の決定に権限が必要である以上、責任の所在を明確にしなければならない。そこに党の存在理由がある。映画監督(英語では、ディレクター、すなわち指導する者である!)が作品にそうするように、党は政策に責任を負わねばならない。失敗したときには責任を誰かに押しつけ、うまくいったら、手柄にするのは言語道断である。  同志レーニンの最も偉大な点の一つは、彼が自説に拘泥しなかったことである。その都度、歴史上にマルクス主義的に自分自身を位置づけながら(これが日和見主義者と区別される一因である!)、意見を覆す。「臨機応変」や「変幻自在」、「君子豹変す」は彼にふさわしい。ゲームにおいて、勝利は相対的である。自分の手に固執するのは賢明ではない。多くの社会主義者や革命家は自説に拘泥する。学者はそれで構わないが、政治ではそうはいかない。自分の手ばかり見ていては、連荘の対面でテンパってばかりで、いつまでたってもドベが指定席だ。また、相手のミスを期待して、勝負に出るとしたら、ずいぶんとのんきである。敵は失敗してこないという前提で、作戦を練るものだ(自然発生的な革命論は、相手のミスを期待して、ゲームを進めようとしているにすぎない!)。  国際政治を例にしてみよう。そこは仁義なき戦いの世界である。つまり、利害で動く。意外なほど目先の利害で動くものだ(最近、脱イデオロギーや左右を超える認識を新しい視座として提唱するものがいる。しかし、国際政治の場では、イデオロギー対立も左右の対立もはるか昔に終わっている。ポル・ポト派を誰が支持していただろうか?)。しかし、相手が何を求めているかを探らずに、自分の利益を追い求めていては失敗する。同志スターリンはアドルフ・ヒトラーと独ソ不可侵条約を結び、蒋介石を支援している。これは間違いなくイデオロギー的には誤っている。しかも、その後、ドイツ軍に攻めこまれるわ、国民党軍は台湾へと追いやられるわとお粗末極まりない。これは現実的にも間違っている。彼の見通しの甘さがソヴィエトを国家存亡の危機に陥れている。  同志レーニンの軌跡は極めてマルクス主義的である。これを発展と見るべきではない。複雑に入り組んだ現実と権力闘争の末、彼の説がヘゲモニーを獲得している。同志レーニンの理論が正しいから勝ったのではない。勝ったから彼の理論は正しくなる。マルクス主義はボリシェヴィキのロシア革命を通じた権力掌握によってその正当性が浸透したのであって、その逆ではない。勝ったものが正しい。それが政治である。政治は権力闘争により、ヘゲモニーを握った方が正統派となる。けれども、異端は組織にとって必要である。他の選択肢は保険のためにとっておいた方がよい(独裁体制は人民もさることながら、政権にとって逃げ道がなくなる!)。同志レーニンは、とりあえず選択した方針が間違いもしくは時期尚早だと気づいたら、即座に異端の説も吸収し、それを示す。彼は自分自身を変えることができたために、体制も変えられたのだ! 6 レーニン主義的闘争  同志諸君、戦時共産主義からネップへと移行していく中、党組織や国家機構の官僚主義化が急速に進んでいく。党組織においては、党の「書記」(自然発生的革命論の支持者たちが自分たちを「労働組合の書記」と見なしていたというのに!)が地方組織の人事を握り、下部機関を圧迫し、党全体を支配する仕組みが出来つつある。党の書記長こそ同志スターリンである。  国家を運営するには、総合的・計画的な政策立案のために、官僚機構は欠かせない。第一次世界停戦という帝国主義戦争は国家総動員体制によって遂行されたが、官僚機構がこれまでにないほど機能している。遅れた農業国を先進的な工業を中心とした国家にするには、この官僚機構を活用しなくてはならない。官僚は、本来、エンジニアである。しかし、党の代行者たるべき官僚機構は悪しき官僚主義に陥っている。  同志レーニンは党の統一を優先するあまり、その深刻さを認識していなかったし、また、『なにをなすべきか?』では官僚機構を理想の組織形態と賞賛していたが、官僚主義こそ最大の問題であると戦いを挑み始める。  一九二三年、『協同組合について』、『われわれは農監査人民委員部をどのように改組するか』、『より良いものをより数少なく、しかりより良いものを』の三論文で、行政改革の構想を公表する。官僚主義はロシアの文化的・政治的後進性に原因があり、旧体制から引き続いてきた国家機関と粘り強く改革していかなければならない。外面だけの忠誠心を蔓延させ、前例主義の権威主義的な態度の官僚主義を打破すべきであると同志レーニンは促している。官僚機構は画一的な量的拡大には向いていても、質に対してはお手上げである。官僚主義が常識化してしまえば、量的な競争に走り、質はなおざりにされてしまう。目標の量を達成するために、躍起になり、批判の自由を抑圧し、よりよいものではなく、中身のないものがつくられる。高品質を求めるには、官僚主義と断固として戦い、党も身ぎれいにしなければならない。三度目の発作で倒れる五日前の三月四日に公表した『より良いものをより数少なく、しかりより良いものを』では、「われわれにとっては、初めのうちは、真のブルジョア文化で十分であろう」と記しているほどである。同志レーニンはこれまで数多くの敵と戦ってきたが、官僚主義が最強かもしれないと思い始めている。  一九二二年五月、同志レーニンに最初の発作が起き、右半身が麻痺してしまう。政権内での彼の影響力は急速に衰え始める。一二月、二度目の発作で倒れると、政治局は彼に療養を命じる。同志レーニンは政治の一線から退かざるを得なくなる。この発作の後、同志レーニンは言葉を失い、政治活動は一切不可能になる。一九二四年一月二一日、四度目の発作により同志レーニンは永眠する。自分を偶像崇拝の対象にしたり、記念館を建てたりすることを禁じたが、同志スターリンは彼を赤いツァーに祀り上げる。さらに、新しいソヴィエト指導部は彼の遺体に保存処理をさせ、レーニン廟で永久保存することを決める。彼は生きているとも死んでいるとも言えない状態で、今もそこに保存されている。  レーニンが復活し、周囲で生じていることを眺め、新聞や新著を読み、姿を消した。人々は、トランクを下げた彼を駅で見かけた。 「どこへ、お出かけになるというのです、ウラジーミル・イリイチ?」 「亡命するんです、みなさん。亡命してすべてを最初からやり直さなければなりません」。 (川崎浹『ロシアのユーモア』)  同志レーニンは一度発した意見に縛られるような振る舞いはしない。真の意味でのレーニン主義は定型を持たないマルクス主義である。彼は戦略家である。双方を兼ね備えていたために、革命家としても、政治家としても指導者としてありえる。戦略家としてマルクス主義的に自分自身を歴史的に位置づける。戦術家としては同志レーニンは、一見、攻撃的であるかに見えて、その子供時代にそうであったように、思慮深い。彼は自分の力だけで敵を抑えこむことはしない。卓越した武道家やアスリートが相手や状況をよく読み、タイミングを見計らい、隙を突き、それらの力を利用するように、同志レーニンもしなやかにかつしたたかに戦う。最近、聞かれなくなったフレーズを使うなら、彼のスタイルは「柔よく剛を制す」である。言いたいことを口にして、周囲がそれに従うのを期待したり、頭ごなしに指図したりはしない。同志レーニンは、実際の行動において、現実の状況と一体化する。この瞬間にこそ、信じられない瞬間にこそ、自説を弁証法的に変える瞬間にこそ、同志レーニンの最高の輝きがある。近代主義の病から回復している。この分散と集中の弁証法は依然としてわれわれが学ばねばならない技である。伝統的なレーニン主義を改変すべく、同志レーニンの特定の時期に注目する試みがある。しかし、彼の柳腰ぶりにその独創性がある。彼は、革命家としても、政治家としても、自説に拘ることがない。政権をとる前と後では、主張が変わって当然である(将来、法務大臣を狙っているからといっても、その準備とばかりに、弁護士が公判中に検事に向かって「お前は無能だ。ここをこうすれば、こいつを有罪にもっていけるんだ」と言うだろうか?)。野にいる場合、権力者に対して、問題点を指摘し、人民に警告を発する。政権の座に就いたら、導きの政策を示さなければならない。指導者は刻一刻変わりゆく現実を適確に読み、最善の選択が求められる。戦いながら、考えるようにしなければならない。  どうも人聞は、いくつもの時間を生きるよりないような気がする。まず、政治の時間。べつに政治家でなくても、どちらに踏みきるかを考えねばならぬが、それは案外に短くて一年か三年、せいぜいが五年くらいのものだろう。新聞の納刷版企眺めてみると、大騒ぎしていたことが、十年もするといまとずいぶん印象が違うように思う。五年前のことだって、すっかり忘れて生きている。  つぎに経営の時間。これは五年か十年くらいのものだろう。会社だって大学だって、その程度の見通しがないとやっていけぬ。政治の時間だと、一年とか三年とかの風の動きを的確にとらえねばならぬが、それだけでは風にふりまわされる。ある種の持続性があって見極めねばなるまい。そのなかで現在を考えるよりない。  そして文化の時間は、十年から二十年は考えたほうがよい。人間だって家だって、そして社会の制度だって、そのスタイルが文化として成熟するのに十年以上かかる。  そして、二十 年もすると、その村会をになう人が入れかわっている。これはもう歴史でしかない。五十年前に評判になった本は、図書館に行かぬと読めぬのが普通。大学だって、五十年前にみんなが熱中していたことはよくて古典、たいていは忘れられている。それが歴史だからしかたない。もっとも、その時代を過ごした人にはいろいろな思いがあるから、百年たたぬと歴史にならぬという考えもある。  こうしたさまざまの時間を持ちながら人間は生きる。改革を考えるときは、政治の時間、経営の時間、文化の時間、歴史の時間と、何種類もの時間を考えるよりなさそうだ。 (森毅『改革の時代の時間感覚』)  国際政治がイデオロギー以上に利害で動くのは、「政治の時間」の世界だからである。「歴史の時間」から見れば、場当たりなのも当然であろう。  同志レーニンは、一九二二年、レフ・ボリソヴィチ・カーメネフに「ネップがテロルに終止符を打つと考えるのは最大の過ちである。我々は必ずテロルに戻る。それも経済的テロルにだ」と書簡を送っている。しかし、この手紙などによって、同志レーニンを批判することは愚かである。ネップを進めれば、貧富の格差が大きくなる。社会の経済発展を底辺で支えているにもかかわらず、その恩恵を受けられない人たちも出てくるだろう。当然、それを修正するか、別の政策を立案するかしなくてはならない。もし同志レーニンがその後も生きていたら、いかなる転身をしたか興味の尽きないところである。 7 党への忠誠  同志諸君、しかし、同志レーニンの姿勢は日和見主義的ではない。なぜならば、ある原則だけは絶一貫して保持してきたからである。それは党の絶対性である。もちろん、歴史への位置づけは二より実主義者と分かつ点である。けれども、それはマルクス主義者として当然の態度である。この原則こそ同志レーニン特有の説である。「革命的理論なくして革命的運動もありえない。流行の日和見主義の説教に、実践活動のもっとも狭い熱中が表裏ともなっているような時代には、どれほど強くこの思想を主張してもたりないのである」(『なにをなすべきか?』)。  ルイス・フィッシャーは、卓越した著作である『レーニン』の中で、同志レーニンにとって「党への忠誠」が最高の美徳だったと次のように書いている。  レーニンは、政治に感情を持ち込むことはけっしてしなかった。彼は、人間としてはスターリンよりもはるかにトロツキーのほうに親近感を抱いていた。また彼は、スターリンとよりもはるかにトロツキーとの間に、人間として共通するものを持っていたし、政治的にもトロツキーとはるかに多くのものを共有していた。しかし、労働組合論争でトロツキーは、規律を破り、そしてほとんど党を破壊しかけようとした、とレーニンは信じた。しかるに、スターリンは、彼の目的がどこにあるのかレーニンにはわからなかった。けれども、とにかく党の結束という大儀に沿って彼に味方した。そして党の規律、すなわち「党への忠誠」がレーニンにとって最高の美徳であった。レーニンの心の中では、個人や労働者階級や主義よりも党が優先していた。  ブルジョア民主主義国では、政党は議会を通じて政治活動を行うための組織であるが、同志レーニンはそう考えていない。それはあまりに政党の力を見くびっている。共産党はヘゲモニー政党である。同志レーニンにとってすべて(個人や階級、組織、主義など)は共産党に優先される。それはすべてに関係し、「指導」することである。  このレーニン主義を実践したのは。前衛党だけではない。中華民国の「党国体制」もそうである。国民党はロシア革命の成功と同志レーニンの党組織論に非常に強く影響されている。何も驚くことはない。その頃の中国の状況を思い浮かべてみたまえ。帝国主義によって食い物にされている。反帝国主義に関する理論と実践の成功例を示したのが同志レーニンとロシア革命である。マルクスでさえない!中国人がレーニン主義に感銘を受けたとしても不思議ではない。蒋介石は、一九三一年六月、国民会議において「中華民国訓政時期約法」を制定し、中華民国の最高権力を中国国民党中央執行委員会に帰属すると明文化する。中国国民党が中華民国を代表するとは、つまり党が国家の主賢者である「主権在党」を意味する。一九五〇年代に台湾で成立した一党独裁体制は、まさにレーニン主義である。あらゆる非党組織の中に党細胞を培養し、党の組織系統を利用して国家機関や社会団体を管理・統制する。無論、両者の間の相違点も認められるだろう。しかし、それは同一の構造が条件によって形態を若干変えているだけである。条件を無視してそのまま移植できると考えるのは非現実的である。  同志スターリンは、同志レーニンの永眠後、何度も粛清を行っている。何百万人も処刑し、それ以上の人をラーゲリに送っている。それは敵対者や反対派、あるいはその地位を脅かすと同志スターリンが判断した者たちである。しかし、同志スターリンが本当に殺したかったのは同志レーニンである。各種の研究によれば、同志スターリンは党と官僚機構との調整役であり、粛清はそのバランスが官僚側に偏ったときに起きている。同志レーニンが共産党主義者であったとすれば、同志スターリンは官僚主義である。それは同志レーニンに対する反逆にほかならない。同志スターリンが抹殺したかったのは同志トロツキーではない。同志スターリンによる粛清は父殺しである。 8 指導について  同志レーニンにとって、「党への忠誠」こそすべてである。すべては党を通じていなければならない。党は分散していくものをつなぎとめられる。同志レーニンの言うように、党を考えると、その仕事は複合的かつ複雑である。唯物論的としたところで、その基礎となる思想や科学、テクノロジーは広大である。しかも、一元的ではすまない。  いわゆる外部注入論で最も誤解されているのは「指導」である。「指導」が党の行いを美辞麗句で飾り立てるための空文句と見なされているほどだ。挑発的なレトリックを用いて、レーニン主義を復権させようという試みもある。しかし、そんな無理をすることはない。この「指導」は同志レーニン自身が体現していたことである。同志レーニンはわれわれに、プロレタリアートに、人民に「指導」する。彼は新たな路線を提案しても、すんなりと信任されたことはほとんどない。なぜなら、たいてい、以前に彼が口にしていたことと矛盾しているからだ。それらは、さまざまな議論や現実分析を通じて、彼が学んだことの表明である。彼の「指導」は何かを教えるのではなく、共に学ぼうという呼びかけである。「指導」により、最も学んでいるのは同志レーニン自身である。  「指導」は上から党が一方的に教えるということではない。下から湧き上がったものを党が組織化し、育成する。「指導」ははコミュニケーションの一種である。それは管理や監視、命令、強制、指示ではない。「指導」が諸問題に対する根本的解決を目指すのに対し、それらは対処療法にすぎない。この場合のコミュニケーションは情報伝達ではない。社会的了解行為である。  同志レーニンは、フリードリヒ・エンゲルスを引用しつつ、理論闘争を政治闘争、経済闘争と並ぶ社会主義運動の大きな闘争形態の一つとして位置づけている。「エンゲルスは、社会民主主義の大きな闘争の形態として、二つのもの(政治闘争と経済闘争)をみとめるのでなしに――わが国ではこうするのが通例であるが――理論闘争をこの二つと同列において、三つの形態をみとめている」(『なにをなすべきか』)。自然発生的な革命の支持者は政治闘争と経済闘争だけが革命運動だと信じている。理論闘争というコミュニケーションを軽視するため、独善的な態度に陥ったり、「労働組合の書記」に甘んじたりしてしまう。他方、同志レーニンは革命運動における理論闘争の重要さを訴える。理論闘争を経ることで、新たな社会的了解が形成される。コミュニケーションは党を「指導」の役割を持つものへとする。「指導」により、同志レーニンはマルクス主義をコミュニケーションの哲学に読み替えている。マルクス主義による革命の中にコミュニケーション理論を引き出したのである。  このような同志レーニンの姿は「反省的実践家(Reflective Practitioner)」である。マサチューセッツ工科大学のドナルド・ショーン(Donald A. Schon)は、『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える(The
  Reflective Practitioner: How Professionals Think in Action)』(一九八三)において、「行為の中の省察(reflection in action)」に基づく「反省的実践家」について説いている。従来の専門家は、言わば、「術的熟達者(Technical Expert」」である。それは、高い教育を受け、身につけた専門的知識を「科学的技術の合理的適用」を実践原理として実行できる人を指す。しかし、これでは、複雑で流動的な現実が生み出す難解な諸問題に対処しきれない。狭い専門的な知識・技術を実践にあてはめようとすることはもはや慎まねばならない。実践の場は、内戦のように、泥沼である。むしろ、その不確実さだらけの悪夢の中で、依頼者と共に身を置き、「行為しながら反省する」という実践的認識論に従って闘争できる専門家が望ましい。それが、幅広い知識、熟慮された経験、行為しながら状況との相互作用を読みとるリテラシーの力、協同作業のできるコミュニケーション能力などを兼ね備えた「眼精的実践家」にほかならない。ショーンの提起したこの新しい専門家象は同志レーニンそのものである。彼は、まさに、実践しながら、考える。  プロフェッショナルとはそうでなくてはならない。プロフェッショナルはエキスパートやスペシャリストと混同されやすい。しかし、倫理観の点で明確に区別される。エキスパートは職人を意味する。技術的熟練者の「熟練者」の原語でもある。個人的な天分と長年にわたる経験や修練によって会得した技能はあるものの、理論的・体系的裏付けを欠いている場合が多い。一方、スペシャリストは研究者や技術者、官僚によって代表される。学問的裏付けのある専門技能を持っているものの、倫理がないため、技能を磨くこと自体が目的となってしまうことさえある。官僚主義の官僚は、当然、「スペシャリスト」と呼ばなければならない。スペシャリストは危機に際して組織防衛に走るが、プロフェッショナルはたとえ自分の所属している組織がつぶれることになろうとも、倫理を優先する。党はこうしたプロフェッショナルによって構成されなくてはならない。それによって真の強さ、つまりしなやかさとしたたまさを持ち得る。  「技術的熟達者」は知能指数(IQ: Intelligence Quotient:)の高さはあるかもしれないが、「反省的実践家」には心の知能指数もしくは多重知能指数と呼ばれる「EQ(Emotional Intelligence Quotient)」が重要視されるだろう。反省的実践家は同僚性の中で育まれる。カリフォルニア大学バークレー校のジュディス・リトル(Judith Warren Little)は、『教師の仕事(Teachers'
  Work: Individuals, Colleagues, and Contexts)』(一九九三)において、教師が授業の創造と研修によって専門家として育ち合う「同僚性(collegiality)」の問題を提起している。「成功した学校(School success)」には、教師が連帯する「同僚性」が最大の要因である。この場合、連帯はあくまでも手段であって、目的ではない。それを取り違えてしまったとき、同僚性は同質性へと変わってしまう。教師は一人でではなく、専門家の助成と自立を促進する先輩の指導者によって共に成長する。教育学ではそういった同僚を「メンター()Mentor」と呼んでいるが、それはオデュッセウスが子の教育を託したメントルに由来し、よき教師の意味である。つねに実践の中で反省し、同僚性に立脚して、専門家として学び続けてこそ、よき教師七なり得る。  同志諸君、われわれはお互いを「同志」と呼んでいる。ウラジーミル・イリイチにさえ「同志レーニン」と呼びかける。われわれは同志意識を共有している。われわれの同志性はリトルの言う「同僚性」であると言える。この「同志意識(comradeship)」こそ「同僚意識(mentorship)」である。同志レーニンは、『なにをなすべきか?』の中で、空文句でない「同志」について「『民主主義』、つまり遊びごとふうでない真の民主主義は、部分が全体にふくまれるようにこの同志的関係の中に含まれているのではないか?」  最近はNGOやNPOといった党以外の組織も国内的にも国際的にも活動し、成果を挙げている。われわれはオタワ・プロセスを真の意味でのソヴィエト、レーテの実現と賞賛している。それらは個別の課題に対処するには適している。個別的なコミュニケーションの組織だと言ってよい。一方、党は総合的に諸問題に取り組む。総合的なコミュニケーションの組織である。と言うよりも、諸領域を横断し、コミュニケーションを総合的に組織化するのが党の役割である。それにより、コミュニケーションが普遍性へとつながる。  同志諸君、コミュニケーションの闘争は経験知や暗黙知との闘争となる(ミュージカル『マイ・フェア・レディ』を思い起こそう!)。一九六〇年代になっても、労働者階級の単純な文章を使う傾向は変わっていない。英国の社会学者バジル・バーンスティン(Basil Bernstein)は、『“教育”の社会学理論―象徴統制、“教育”の言説、アイデンティティ』において、労働者階級と中産階級の言語の違いを分析している。前者の使っている言語は特定の文脈において意味が通じる「限定コードRestricted Code)」である。それに対し、後者は一般化された抽象的な概念を論理的に展開する「精密コード(Elaborated Code)」を使用している。「限定コード」では、全般的に、単語や具体的な事実だけの発話ないし命令文が多用され、文章が長くなると、並列的に重文として構成されている。一方、「精密コード」においては、抽象的な単語が多く用いられ、婉曲的な言い回しも使われて、長い文章には関係代名詞による複文で表現される。「限定コード」は「工場英語(Factory English)」、「精密コード」は「オフィス英語(Office English)」と言い換えられる。工場では現にそこに具体的なものがあるため、限定コードですむ。工場長が新米にボタンを指さしながら、「それを押せ(Push it!)」で十分に通じる。ところが、オフィスでは、そうはいかない。先物取引はまだないものを扱う。精密コードが必要である。労働者階級は、子供の頃から、コミュニケーション上の階級闘争を強いられている。  これは、発音の点も含めると、マイノリティや民族問題、グローバリゼーションなどにも関係し、帝国主義・植民地主義的な矛盾となっている。コミュニケーションの革命運動は現代の帝国主義に対する闘争である。  「指導」は難しい。経済的な問題において組織や個人への指導がうまくいかなくなると、そこにモチベーションの低下やモラル・ハザード、フリーライダー問題などが起きてしまうからだ。インセンティヴが必要である。  数々の証言は同志レーニンがその言葉によって人民を惹きつけたと伝えている。聞き手は高い教育を受けているものだけでなく、労働者や農民も多い。彼らは限定コードを使っている。それを念頭に、同志レーニンは文学的にではなく、芸術的にではなく、形而上学的にではなく、戦略的に語る。うまく書こうなどという気はさらさらない。しかし、それはあの『デイリー・メール』の文体とはまったく、根本的に、本質的に違う。同志レーニンは言語の上でも革命を実行していたのである。  同志諸君、ロシアのフォルマリストが分析している通り、同志レーニンの言語は簡潔にして明瞭、しかも圧縮されている。語彙は少なく、美辞麗句・大言壮語・空文句・決まり文句を斥け、伝統的・専門的な単語や新奇な外来語(聞きなれないカタカナ語による「言葉のペテン」は日本の保守派に属する政治家の常套手段であるが)を日常の言葉に置き換える。なんとなく使われている単語の曖昧・惰性が覆い隠しているものを浮き上がらせ、言葉の用法が本当にそれで正しいのかとお問い直す。同じ言葉であっても、その意味合いが違うと喚起させたり、入り組んだ事柄を短絡的に言いくるめることを糾弾する。  総じて、同志レーニンの口調は論争的で、悪口雑言は彼の得意とするものである、「左翼小児病」はその代表であろう。また、()を説明は言うに及ばず、皮肉や機知のためにも多用する(テレビ番組のテロップやマンガのフキダシに入らないセリフのテクニック!)。  構文は単文の連続であり、流麗なレトリックもなく、躍動的・直線的である。雄弁さやおしゃべりを拒み、自己陶酔に陥らないように配慮している。また、効果的に、繰り返しを用い、何回も何十回も何百回もという具合に、数の修飾をたたみかける。扇動的であっても、扇情的ではない。  実践しながら考える同志レーニンは過去の言動に縛られない。原則やスローガンはドグマではなく、行動の際の便宜的な指針にすぎない。今、とりあえず役に立つから使っているだけである(スローガンは労働者の意欲を高めるためのものであって、それを守らせようと労働者に強いるのは本末転倒である!)。論文の題名は目にするだけですぐに内容がわかり、時としてぶっきらぼうでさえある。話の枕も置かず、すぐに本題へと入る。また、引用は極力抑えられている。  それはアドルフ・ヒトラーのまがまがしいカルトな文体とは異なっている(ナショナリストたちや原理主義者たちはその物似をするが)。「言葉のペテン」は同志レーニンの最も嫌うところだ。詐欺師は閉鎖的・硬直的なレトリックを使うものである。彼の文体は、むしろ、アーネスト・ヘミングウェイの文体に近い。ヘミングウェイは時系列に沿い、簡単な名詞と動詞を組み合わせた単文の文体を用いている。抽象的な単語を使わなければ、内面性や複雑さを表すことは難しい。この簡素さにより、登場人物の内面描写や作者の意見叙述が省かれる反面、行動の記述が主体となり、場面も際立つという効果が生まれる。それは行動派の作家にふさわしい。彼のタイトで直線的なスタイルは、ヴィクトリア朝風のいささか回りくどく、こみいった文体を駆逐し、ハード・ボイルドの手本となる。同志レーニンの文体も実践と状況に焦点が当てられている。  同志レーニンは、意識的に、人民の言語を使っている。彼らに何かを伝えるためだけにそれを用いているのではない。そうではなくて、ジャーナリズムを含めた政治文書がどのように書かれているのか、すなわち政治文書のリテラシーを明らかにするためである。その上で、人民に政治のリテラシーを共に学ぼうと語りかける。  同志レーニンが最後に挑んだ官僚主義との戦いはまさにコミュニケーションにおいて顕著である(映画『グッバイ、レーニン!』では、目覚めた母親クリスティアーネにまだベルリンの壁があると信じこませるために、息子のアレックスはお決まりのルールに従ってコミュニケーションを繰り返している)。官僚主義の文体は同志レーニンの演説や論文の文体と正反対である(同志スターリンは、その点でも、いや、この点ではよりいっそう、父殺しを行っている)。党はコミュニケーションの組織である。それを自覚し、コミュニケーションを利用して、再構築することで、官僚主義と闘争していかなければならない。それは同志レーニンの最後の訴えの真意である。  教条主義や日和見主義に陥らず、その都度、マルクス主義的に歴史に自らを位置づけ、指導、すなわち反省的実践を通じて、総合的・普遍的にコミュニケーションを党により組織化し、帝国主義に対する革命を挑む。これが現代のレーニン主義者の姿である。 9 ハロー、レーニン!  同志諸君、国を乗っとるよりも、統治し、運営する方が難しい。ほとんどの革命勢力が政権についてしばらくすると、打ち倒した連中と同様、横暴になり、腐敗していく。革命運動は対抗勢力とはなりえても、それ以上ではない。一般的にはそう思われている。革命家は革命という乱痴気騒ぎに浮かれ、日常生活に適応できないは乱し者だというわけだ。強引に自分たちの思いこみと思いつきを押し進め、おまけに政権を運営していくのには経験不足で、たちまち経済的に行き詰ってしまう。それは革命運動が政治闘争とのみ理解しているからである。革命運動は、何よりにもまして、コミュニケーションの闘争である。分派闘争が絶えなかったり、原理主義に走ったり、官僚主義に堕落したりするのは、革命運動がコミュニケーションの闘争であることが見失われているからである。体制というものが腐るのはコミュニケーションのレベルでまず現われる。このコミュニケーションの観点から、同志レーニンのいわゆる外部注入論は省みられなければならない。党による「指導」とはコミュニケーションの総合的・普遍的な組織化である。  ソ連が崩壊してすでに一五年以上経つ。ロシア革命が「歴史の時間」なら、ソ連崩壊は「文化の時間」の尺度になりつつある。確かに、共産主義が資本主義を超える体制という考えは過ちである。しかし、カール・マルクスは原始共産制に言及していたことを思い出さねばならない。共産主義は人間の共同生活の原点を想起させるものである。資本主義は特殊な体制である。それは、前資本主義時代と比べて、あまりにも短い歴史しか持っていない。これが唯一無二の絶対的な体制であると考えているとしたら、真に愚かであろう。資本主義による所有権の一元化による矛盾や窮屈さは世界を疲れさせている。開発経済学の研究によると、資本主義の前提である近代的所有権が途上国の環境破壊や貧困の原因となっている。私的所有を禁止して、国有化するのも一元的所有権の点ではまったく同じである(諸民族の歴史や伝統を無視した国家による社会主義体制への一元化は市場による資本主義の一元化とあまりにもよく似ている)。マルクス主義者にとってマルクスの思想は入会的著作物である。近代的な著作権を適用するべきではない。敬意を表し、非商業的に共有するものである。革命運動が応えなければならないのは労働問題だけではない。環境問題も極めて重要である。帝国主義の弊害はそこにも及んでいる。前資本主義の知識や工夫を見直す動きが活発になっている。共産主義は前資本主義の知恵や意義を資本主義の経験の後に生かす体制である。共産主義が資本主義の後に登場するとカール・マルクスが主張したのは、そのためである。  革命とは一夜にして起こるような劇的な変化ではない。ある変容の過程を通過した後、それ以前に社会が達成してきたり、蓄積したりしてきたものが、あっという間に追い抜かれてしまうことである。革命の期間が三〇年、五〇年、八〇年、一〇〇年に及ぶことさえある。近代化のための革命は瞬間的であり、目に見えやすかったが、現代の革命は長期にわたり、目に見えにくい。同志レーニンの示した革命は始まり、今も続いている。それはコミュニケーションの革命である。  同志諸君、だからこう言おうではないか。”Hello Lenin!” You say yes, I say no You say stop and I say go go go, oh no You say goodbye and I say hello Hello hello I don't know why you say goodbye, I say
  hello Hello hello I don't know why you say goodbye, I say
  hello I say high, you say low You say why and I say I don't know, oh no You say goodbye and I say hello (Hello goodbye hello goodbye) Hello hello (Hello goodbye) I don't know why you say
  goodbye, I say hello (Hello goodbye hello goodbye) Hello hello (Hello goodbye) I don't know why you say
  goodbye (Hello goodbye) I say hello/goodbye Why why why why why why do you say
  goodbye goodbye, oh no? You say goodbye and I say hello Hello hello I don't know why you say goodbye, I say
  hello Hello hello I don't know why you say goodbye, I say
  hello You say yes (I say yes) I say no (But I
  may mean no) You say stop (I can stay) and I say go go
  go (Till it's time to go), oh Oh no You say goodbye and I say hello Hello hello I don't know why you say goodbye, I say
  hello Hello hello I don't know why you say goodbye, I say
  hello Hello hello I don't know why you say goodbye, I say
  hello hello Hela heba helloa Hela heba helloa, cha cha cha Hela heba helloa, wooo Hela heba helloa, hela Hela heba helloa, cha cha cha Hela heba helloa, wooo Hela heba helloa, cha cah cah  (The Beatles “Hello,
  Goodbye”) 〈了〉 参考文献 ヴェ・イ・レーニン、『改訳なにをなすべきか?』、村田陽一訳、大月国民文庫、一九七一年 ヴラジーミル・イリイッチ・レーニン、『国家と革命』、角田安正訳、ちくま学芸文庫、二〇〇一年 レーニン、『帝国主義論』、角田安正訳、光文社文庫、二〇〇六年 江口朴郎編、『世界の名著63レーニン』、中興バックス、一九七九年 日本共産党中央委員会レーニン選集編集委員会編、『レーニン一〇巻選集』全一二巻、大月書店、一九六九〜七二年 朝日新聞社編、『100人の20世紀』上、朝日新聞社、一九九九年 新井郁男=住田正樹=岡崎友典、『新訂版生徒指導』、放送大学教育振興会、二〇〇六年 池井大三郎、『新訂版アメリカの歴史』、放送大学教育振興会、二〇〇四年 稲子恒夫、『革命後の法律家レーニン』、日本評論社 
  一九七四年 猪木正道、『増補共産主義の系譜』、角川文庫、一九八四年 猪木正道、『ロシア革命史』、中公文庫、一九九四年 岡田裕之、『ソヴェト的生産様式の成立』、法政大学出版局、一九九一年  小田博、『スターリン体制下の権力と法』、岩波書店、一九八六年  亀山郁夫、『熱狂とユーフォリア』、 平凡社、二〇〇三年 川崎浹、『ロシアのユーモア』、講談社選書メチエ、一九九九年 倉持俊一、『人類の知的遺産65レーニン』、講談社、一九八〇年 渓内謙、『 スターリン政治体制の成立 
  第1部』、岩波書店、一九七〇年  渓内謙、『スターリン政治体制の成立 第2部』、岩波書店、一九八〇年  渓内謙、『スターリン政治体制の成立 第3部』、岩波書店、一九八〇年  渓内謙、『スターリン政治体制の成立 第4部』、 岩波書店、一九八六年  佐藤学、『改訂版教育の方法』、放送大学教育振興会、二〇〇五年 塩川伸明、『スターリン体制下の労働者階級』、東京大学出版会、一九八五年  塩川伸明、『ネップ・スターリン時代・ペレストロイカ』、東京大学出版会、一九九一年  田岡俊次、『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』、朝日新書、二〇〇七年 高木保興、『開発経済学』、放送大学教育振興会、二〇〇五年 筑摩書房編集部編、『現代世界ノンフィクション ヴェリタ24』5、筑摩書房、一九七八年 中沢新一、『はじまりのレーニン』、岩波現代文庫、二〇〇五年 中野徹三=高岡健次郎共、『レーニン』、清水書院、一九七〇年 中野徹三編、『スターリン問題研究序説』、大月書店、一九七八年  福井憲彦、『近代ヨーロッパ史』、放送大学教育振興会、二〇〇五年 松田田康博、『台湾における一党独裁体制の成立』、慶應義塾大学出版会、2006ねん 森毅、『たいくつの美学』、蒼土社、一九九四年 森毅、『ええかげん社交術』、角川oneテーマ21、二〇〇〇年 森毅、『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』、蒼土社、二〇〇六年 山内久明=木畑洋一=草光敏雄、『地域研究V ヨーロッパの文化と社会』、放送大学教育振興会、二〇〇二年 ルイ・アルチュセール、『レーニンと哲学』、西川長夫訳、人文書院、一九七〇年 ドミートリー・ヴォルコゴーノフ、『レーニンの秘密』上下、白須英子訳、日本放送協会出版、一九九五年 E・H・カー、『ロシア革命 レーニンからスターリンへ1917-1929年』、塩川伸明訳、岩波現代文庫、二〇〇〇年 ジョン・K・ガルブレイス、『不確実性の時代』上下、斎藤清一郎訳、講談社文庫、一九八三年 リチャルド・コソラポフ、『スターリンとレーニン』、伊集院俊隆訳、新読書社、二〇〇三年 ヴィクトル・シクロフスキイ他、『レーニンの言語』、桑野隆訳、水声社、二〇〇五年 スラヴォイ・ジジェク、『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』、長原豊訳、岩波書店、二〇〇五年  ドナルド・ショーン、『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える』、 佐藤学他訳、ゆみる出版 二〇〇一年 ポール・M・スウィージー=ハリー・マグドフ編、『現代とレーニン』、坂井秀夫訳、福村出版、一九七二年 H・カレール=ダンコース、『レーニンとは何だったか』、石崎晴己訳、藤原書店 
  二〇〇六年 レフ・トロツキー、『レーニン』、松田道雄訳、中公文庫、二〇〇一年 バジル バーンスティン、『“教育”の社会学理論―象徴統制、“教育”の言説、アイデンティティ』、久冨善之他訳、法政大学出版局、二〇〇〇年 ゲルハルト・プラウゼ、『天災の通信簿』、丸山匠他訳、講談社文庫、一九八四年 マーク・ブローグ、『ケインズ以前の100大経済学者』、中矢敏博訳、同文館、一九八九年 ベルント・リヒテンベルク=ヴォルフガング・ベッカー、『グッバイ、レーニン!』、入間真編訳、竹書房文庫、二〇〇四年 S・ルバノフ、『レーニン 批判の批判』、伊集院俊隆他訳、新読書社、一九九三年 DVD『グッバイ、レーニン!』、ビデオメーカー、二〇〇四年 DVD『エンカルタ総合大百科2006』、マイクロソフト社、二〇〇六年 |